パートナーシップと向き合い続けるのは面倒くさい

ottoがよそよそしい言葉遣いで怒っている。今朝も昨日に引き続き2日目。
面倒くさいわ〜〜と、引き気味で眺める
Amana Lotus中井です。

ただ今我が家では

3月半ばに早期退職して以来、otto一日中家で過ごす生活(自粛生活を先取りしていた?!)に加えて、

新しく家を探して購入し、リフォームして引っ越しをして、新しい生活をするための準備をしていく、という作業の進行形の日々を送っております。

二人で合意して取り決めなければならない案件が目白押し。そんな中で衝突する事しばしばでヒートアップするのですが、

そこは男脳と女脳。お互いの言っていることが全く理解できない壁にぶち当たって進まなくなることがあります。

一昨日もそんな折、

男脳は「宇宙人と話してるみたいや。話しても無駄やからこれ以上無理」とシャットダウンするし、

女脳は日頃思っている「いつまでも逃げているんじゃない」とか、相手が一番触れて欲しくない部分にピンポイントを当ててしまったものだから、

もう〜男脳は切れてしまったのですね。

次の日の朝。こちらの言葉かけに、「はい」「そうだと思います」など距離を置くようなニュアンスで最低限の受け答えのみのotto。

昼ごはんもTVの音だけが流れ黙々と食べるotto.
二人だけのランチタイムは重々しい・・・。

息苦しいので食後に私はお散歩へ。

いいね、お散歩は。ゴミゴミして空気が悪くてお散歩する気にもなれなかったご近所も、この度の自粛で人通りもなく空気もキレイになっている。天の助けです♪

夕ご飯もこの雰囲気じゃ嫌だわ。今回は「寮母作戦」でいくことにします。

作ったものを一人分だけ並べて。はいどうぞ食べてね〜

その間私は洗い物や片付けなどの作業をして、食べ終わった食器を洗って片付けた後、

トレイに自分の分を乗せて別室で一人静かに美味しくいただきました♪

今日はアボカドと海老の丼。

アボカドの熟れ具合もちょうど良いし、バナエイエビはやっぱり甘くて美味、隠し味に入れた発酵玉ねぎがまたいいアクセントになってるわ〜〜

など、しみじみ感じ入りながら食べていると、ottoが機嫌が悪かろうが、そんなものどうでも良い感じに流れていってしまいました。

そうそう・・明日のパンが無かったから、買いに行っておこうかな。

そう思い出して、夜ご飯が終わってから

いつもは自転車で行くスーパーまで歩いていくことにしました。

「明日のパン買いにいってくるね」と声かけすると、

「はい、わかりました」ですって・笑

いつまで嫌な気分を引きずってるねん
私がこれから出かけて交通事故で帰らぬ人になるかもしれんのに、
もしそうなったら、きっと後悔するで

などと思いながら、ふんふん鼻歌まじりにお散歩です。

八重桜が満開!

都会はいいですね。徒歩圏内にお買い物するところがいっぱい。

それに道が明るくて人の往来もあるから、さほど怖くない。

出先のスーパーではフレッシュな苺がちっちゃなパックで売られていて、もう本当にいい香りを漂わせてアピールしてくれていた!

明日は苺ジャムをちょっぴり作ろう。

パンとイチゴの入ったエコバックを下げて、元来た道へ。おうちへ帰ろう。

この日は朝、昼、夜とお散歩したからでしょうか、ぐっすり眠れました。

今朝も昨日の気持ちよさを味わいたくて、お散歩・笑

木々の葉っぱが緑色に光っていて、ハッとしてしまう。

目に飛び込んでくる植物の美しきエナジー。今日も一日気持ちよく過ごそう。

ottoは今日もよそよそしいけれど・笑

パートナーシップと日々向き合うことは、本当に面倒くさい。
時に波風が立ち、凪があり・・それで当たり前だと粛々と調整することが求められているんだろうと思う。もうこれ以上無理、となったら、それまでのことなんだろうと思う。

女性のためのプライベートサロンAmana Lotusは
ただいま移転準備のため休業中です
7月半ばを目指して絶賛準備しております!
今しばらくお待ちくださいね♡

2020.4.1〜

「優しい人なんだなぁ〜」と私の女性性が受取った三輪山登拝

夫婦で奈良の三輪山に登拝して、ちょうど1ヶ月が経ちました。

Amana Lotus中井みどりです。

身体は50歳まで危機にさらされている

数年前、お亡くなりになる少し前に講演でお話を伺った、

安保徹先生は開口一番

「50歳まで生きられたということは凄いことなんですよ」

と仰いました。

人の寿命の流れの中では、身体が曝される危機というものがいくつもあるのだと。それを乗り越えて中継点の50歳まで生きられたなら、

カラダ的に人生の一山を超えたということなのでしょう。

そして

50歳という年齢は体が次のステップに切り替わる年齢だ、ともおっしゃっていました。

伺った当初はとても意外でしたが、

東洋の知恵「黄帝内経」にある、節目年齢での身体変化を眺めてみると

生殖期は大変なエネルギーを使い、負担を伴うということがわかります。

●女性は7の倍数で変化・・

28歳 女性として体が最も充実する

35歳 容姿の衰えが見え始める

☆顔がやつれ始め、髪も抜けやすくなる。

(肌のケア、髪のケアも入念に。婦人科系トラブルにも注意しましょう)

42歳 白髪が目立ち始める

☆顔にシワが目立つ。心身の不調が起こりやすくなる。

(血行をよくする、体を冷やさない対策をとりましょう)

49歳 閉経。子を授かることが難しくなる。

☆閉経前後の不定愁訴が起こりやすくなる。

(ストレスケア、ゆったり過ごす工夫を。生活習慣病にも注意しましょう)

●男性は8の倍数で変化・・

32歳 男性として体が最も充実する

40歳 衰えが見え始める

☆抜け毛、歯のトラブルが起こりやすくなる。(髪のケア、歯のケアも入念に)

48歳 白髪が目立つ

☆顔にシワがより、白髪が増えやすくなる。疲れが抜けにくくなる

(体の変わり目だと心得ましょう)

〈養命酒HPより〉

様々な試練や変化に翻弄されても自然治癒力があったからこそ、めでたく50歳という節目を迎えることができて、今を生きている。

本当にすごいことだなぁ・・。

昨年、ある方から

「ものすごくご先祖さまに守られているね」と言われました。

50代のいまの今まで、大病をしたことも大変な危機にも曝されることなく過ごすことができているのも、

見えないけれど「ある」ものに護っていただいているからなんだ・・

と強く思い出し、お詣りしようという気持ちが沸々と湧き始めました。

そうなると

不思議なことに、どんどんご縁のある土地に神社に呼ばれるようです・笑

お詣りがもたらしてくれた「大切な柔らかさ」や「心のゆとり」

三輪山を御神体とする大神神社も、その一つです。

三輪山に一人で登拝しようと思いました。

でも、待てよ。

2020年はottoの早期退職や新居購入、息子の結婚など、大きなイヴェントが身近に迫ってくることを考えると、

ここはいっちょ夫婦で参拝するのがいいのではないか・・

という思いがよぎりました。

ottoとは趣味が全く合わないし、お出かけの誘いをしても全て拒否されてきたし、ましてや神社参拝などお正月のイベントとしか考えていないので、期待はせずに誘ってみました。

「三輪山、一緒にお参りする?」

するとあっさり、

「うん、そうやな。神頼みでも一応しとこかな」

と。

ottoも人生の節目や大きなイヴェントに不安を少なからず感じていたのでしょうね。

今日読んだ星野さんのコラムとottoの心模様が重なりました。

中略

科学的に未知なものが確かな助けになりうるという点では、信仰もあてはまるような気がします。僕は去年の今頃のこの連載でも書きましたが、新年にはやや遠くに参拝に行きます。元々、信心深さはまるでない人間だったはずなのですが、今や毎年決まった好きな宿に泊まり、いくつかの神社に参拝をしています。きっかけは、ある人に「あなたは猿田彦神社が合っていると思うから行ってみたらどう?」と言われたことでした。それまで、困った時以外に神社に行くようなことはしませんでした。「困った時の神頼み」のみ、都合よくしていたのです。でも、その人に言われるがままに行ってみることにして、行くからにはどんな神様なのか気になるので古事記の簡単なものを読み、河合隼雄やユングを想起したりなどしているうちに、信仰の起因となる非科学的なものを感じられるような気になってきました。それは恐らく、気とか神様などのような、はっきりと捉えることはでき切らない「ない」ようで「ある」ものです。
 参拝に行ったり、厄払いをしたりなどの行いをしていると、なんとなくですが安心した気持ちになります。全てのことを神頼みに任せるつもりはないし、お参りしたからといって何もかもがうまく転がるとも思っていないのですが、自分の人生をここちよくしていくための、ほんの少しだけの味方を得たような気持ちになることは確かです。つまり、数ミリくらいだけれど、「〜〜をしたから大丈夫だろう」などの形で他力本願が許されるような気持ちになり、孤独な気分が少なくなるということです。これはきっと様々な場面で、意識できないほどではあるけど大切な柔らかさとか余裕をもたらしているような気がしています。僕のようにオーソドックスな参拝をする人も、独特なおまじないやルーティンを持つ人も意味合いは同じだと思います。今年行った神社の神主さんも「日本人は、神社でお参りをしながらお寺に行って念仏を唱えたりして無宗教だと言われます。でも、信仰心があるということ自体が大切なので決して無宗教ではないと思っています」と言っていました。これには強く同意したい気持ちになりました。

『「ない」ようで「ある」星野概念』

お茶の花がひっそりと 

立春をすぎた初午(はつうま)の2/9に初登拝しました。

多くの方々が登られていました。

グループでお一人で。

そしてご夫婦での参拝が多いことに驚きました。

老いも若きも。様々な世代のパートナーシップのカタチを拝見しました。

女性がストックを持って登り、それを持って助けてもらいながら上がっている男性の姿だったり、

急な登り坂を一段一段、休み休み上がる女性を少し上段から待つ、男性の眼差しだったり。

なんだかわからないけれど、パートナーシップのエネルギーのようなものに共鳴しているような感覚で、私自身が静かな柔らかさで満たされていたような気がします。

途中休憩を気遣ったりしてくれながら、私の前を登るottoの背中をぼんやり眺めながら一歩一歩ついていくうちに、

ふと

「優しい人だなぁ」って言葉が浮かんできて、涙が溢れてきました。

きっと私の魂の深いところが悦んでいたからなのでしょう。

これは純粋な、真の悦びですね。

頂上の磐座にお詣りする頃にはチラチラと細かい雪が舞っていましたが、

時折日差しと青空が見え隠れして

「ようお参り」と言っていただけたようです。

こうしてお山でパートナーシップが私のバランスを整えてくれることとなり、

心はとっても穏やかなハッピーで満たされたようです。

帰りに三輪にゅうめんで遅いランチをして、八百屋さんで奈良漬けを買って帰りました。

神様とご先祖様の見えないけれど見護られている安心感をそれぞれ感じて家路につく50代夫婦。

2020年3月の今、

大きな波を乗り越えながら二人の新しい生活を築いている最中です。

新居探しのデートもまだまだ続行中です。

親は子どもに許してもらうことで自分の親を許すことができる

「親は自らの子に許してもらう」

5月に結婚式を挙げる遠く離れて住む息子から

otto宛にLINEが届いた。

”携帯の名義変更の書類送ったから。保険の名義変更の件も。”と。

ottoが成人してからもずっと家族割で息子の携帯代を払い続け、また息子名義の保険にも加入していたので、この度やっと独立する機会を得たという訳です。

また少し、前へ、遠くへ。息子の姿が離れていくのを思い浮かべただけで、なんだか切なくて鼻の奥がツンとしてしまいます。

(ottoもお金の援助で心を繋ぎとめていたでしょうから、随分と寂しいでしょうねえ・笑)

そんな時にふと目にした

三砂ちずるさんの「おせっかい宣言」 第66回「親を許す」

にハッとしました。

2020.01.23更新

 親になるとは、許されることを学ぶことなのだ。自らの子どもに許されること。なぜなら、わたしたちは、親になると、まちがうから。不可避的に、まちがうから。自らが良かれ、と思って、子どもたちにできるだけのことをしようとするけれど、その多くは子どもたちの向かう方向性とは、異なっているから。結果として、何をやっても、やっぱり何かしら、間違っていることが多いのだ。自分としては、いっしょうけんめいやったんだけどなあ、と、親としてのわたしたちは、ぼんやり思うことができるだけだ。わたしたちはまちがう。まちがうから、子どもたちに、許されなければならない。許されていて欲しい。それは、祈りのようなものだ。
 自らの子どもに許されることで、自らも、自分の親を許すことができるようになる。自分の親も、自分の親のその時の制限の中で、精一杯のことをやったのだろうから、と認められるようになる。「無償の愛は、親から子どもに与えるものではない。無償の愛は、子どもから親に届けるもの」。聞き間違い、書き間違いではない。無償の愛とは、子どもの側から親に捧げられるべきもの。

・・・・中略

https://www.mishimaga.com/books/osekkai/001904.html

このコラムを読んで、

今からずいぶん昔の光景をふと思い出しました。

当時20歳頃の息子は、何をやってもうまくいかずに自信を失い迷走し続け、家族とも距離を置いていました。心理カウンセリングにも足を運んだりもしました。

母親であった私は自分の子育ての中で、どれほど彼を傷つけ否定し続ける言葉を浴びせてきたかに思い至り、

また

今これほどの自己否定をさせてしまっているのは、自分の子育てのまずさや失敗に晒された結果だ・・と思い詰めていました。

そんな私が取った行動が

息子に「許しを乞う」ということでした。

思う存分傷つけておきながら、過去のしくじりを許してほしいとは、なんとも都合のいい話だな・・とも思いましたが、自分自身の過ちを謝りたい一心だったのです。

謝ったところで彼が被った過去の心の傷をなくすことはできないし、傷つけてしまった私が修復してあげることもできない。

そんなジレンマを感じながら。

過去のあれこれに対して「ごめんね」という母親の私に息子は、

「そんなことあったっけ?」

と、さらりと流して終わりました。

真意は掴みかねますが、

この時私は、息子の無償の愛に包まれて癒されたのだと

今は思えるのです。

無償の愛は子どもから親へ届けるべきもの

自らの子どもに許されることで、自らも、自分の親を許すことができるようになる。自分の親も、自分の親のその時の制限の中で、精一杯のことをやったのだろうから、と認められるようになる。

これは道理(物事がそうあるべき道すじ)なのだと感じます。

そしてこれは実際に子どもが居るいない、子育ての経験がある無いにかかわらず、

誰かから生まれてきた全ての人たちが

自分の中にいる子どもから無償の愛を受け取ることができる、

ということなのだと思います。

子どもの自分が、親である自分を許すことによって(自愛)

自分は生きていて良い存在なのだと肯定できる、

その結果

自分が生まれてきた親たちをも許すことができる・・

ということなのですね。

この道理は私たちに生きる勇気を与えてくれます。

ニッチもさっちもいかないグルグル巻きの親子関係に苛まれている人にも、

辛い記憶から離れられない人にも、

きっと届くはずです。

ご紹介した三砂さんの「親を許す」は

オックスフォード大学でマイケルジャクソン氏が語った講演内容を元に書かれていらっしゃいます。

三砂さんがご紹介くださったこちらのYou Tubeも是非ご覧くださいね。

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